田丸昇
九段
大山康晴名人が無敵だった1960年代、山田道美八段は「打倒大山」を唱えて、タイトル戦で敢然と立ち向かった。壮烈な闘志が大山を刺激し、対局中に緊迫した空気にもなった。山田は現代の「研究会」システムの草分けで、棋士との共同研究で大山の振り飛車を徹底的に調べた。1967(昭和42)年には大山から棋聖を奪取した。中原誠五段が挑戦したその防衛戦で苦しむと、「追われる立場は辛いですね。それをずっと続けている大山さんは偉い」と語った。1970年6月6日、棋聖戦の挑戦者決定戦で大山名人と山田八段が対戦した。大山の三間飛車に山田は棒銀で攻め込み、激しい攻防を繰り広げた末に、大山は強靭な守りで山田の攻めを封じて勝った。両者は夕食休憩で、将棋界の将来を語り合った。互いの考え方を理解し合うようになっていた。それから12日後の6月18日、山田は難病によって36歳の若さで急逝した。山田が存命だったら、以後の将棋界の地図は大きく変わっただろう。
※棋士の肩書は当時。