棋士・女流棋士がふりかえる100年

神崎健二八段「あの石」

神崎健二

八段



1950年代某日
大阪住吉区関西本部一階
奨励会員会話
「升田先生あったか?」
「升田先生あったよ」
ドタドタドタ!
二階から階段を凄い勢いで降りてきた。
「この升田幸三を物のように呼ぶとは何事か!誰の門下だ」
奨励会員「灘蓮照門下の前田です」
人が居ることを「ある」というのは、前田の出身地和歌山県南部の方言。
升田八段は師匠名を聞くとなぜか二階に戻った。
当時は快適とは程遠かった。

     ↑ 【連盟20代頃】

1981年完成の関西将棋会館御上段の間。畳の良い香り。
三段リーグ後前田は退会、指導棋士五段。地元田辺市で普及活動と骨董商。
弟弟子高校生神崎は二段で低迷。和歌山出身の初の棋士との期待も見込違いだったか・・
前田は升田に怒鳴られたぼろ家だった住吉時代を思い出す。
江戸城御黒書院を模した造り。床の間に三名人掛け軸。隔世の感。
だが何かが足りない。
しばらく後。
御上段の間に、和歌山県日高郡~熊野地方にかけてのみ分布の古谷石(ふるやせき)がやってきた。綺麗に磨かれていて左右に広い。
広大な和室に横幅の狭い石では荷が重いとの見立て。
奨励会一年後輩の有吉道夫理事(当時)。前田の親友の伊達康夫理事(当時)。
伊達「前田君本当に寄贈者名はいいのかね?えっ、えっ?」
前田「石のほうが望んでここに来たので・・」
「これは田辺藩が幕府への献上物として納めてきた希少な石。石ころ三個盗んだ者が三里追放され家財没収という記録も残る門外不出の『御止め石』
床の間の石には名をつけたり台に銘を入れることもあるけど、この石は石自身が江戸幕府との縁で来たんや。だんさん」
有吉「前田君がそう言うなら、そうねぇ、そうかもしれないねぇ」
石は、床の間、御上段、御黒書院と永い歳月を共に過ごす。掛け軸や床の間と少しずつ馴染んでいった。

      ↑ 【連盟57歳時】

2022年10月26日田辺市
87歳前田造(はじむ)七段宅。
有吉九段の葬儀の様子を伝える弟弟子。
弟弟子「・・という心のこもった会長の弔辞でした。ところで高槻移転後の対局室の床の間には今と同じ掛け軸がかかると予想しています。御黒書院と対になっていると以前おっしゃっていたあの石については?」
兄弟子「わしは元々あの石が望んだので今の所に置いてもらっただけや神崎君。石の意志。自然流」
41年間棋界の移り変わりや名勝負を観戦して来たあの石。
きっとこれからも永く棋界のことを見守ってくれるような気がしている。

(文中敬称略箇所と推理記述有) 

     ↑ 【連盟98歳・完】