棋士・女流棋士がふりかえる100年

藤井奈々女流初段「現会館の思い出やエピソード」

藤井奈々

女流初段

懺悔

羽生善治九段に憧れ、ぶかぶかの真っ赤な帽子を被り、関西将棋会館デビューを果たしたのは小学2、3年生。
家の近くの将棋教室に通い、その初めての将棋大会で大きな優勝の賞状を満足げに持って帰ってきた娘を見て、将棋を全く知らない母が『この子は将棋の素質があったんだ!』と勘違いをしたのだと思う。
その後、両親から大きな期待を受け、電車で一時間以上もかかる大阪の本場へ足を踏み入れることになったのである。
いつも、休みの日ごとに一緒に付き添えない両親は私の身を案じ、少しでも危険を減らすべく、髪の毛を刈り上げた。私は、男の子のような恰好で大きなリュックに将棋の本やお弁当を詰めて、ひたすら通うことになった。

しかし、いくら将棋が面白いと言っても、好奇心が旺盛な八歳程の私には、将棋一筋まっしぐらという軌道の上を行くのは余りにも無理があったようだ。
従って、「将棋」という名目を掲げながら、家では買ってもらえなかったゲームを将棋会館で友達に借りて楽しみ、ある時は姉の本棚からこっそり、歴史漫画をリュックに詰め込み、将棋道場の片隅で読み耽ったり、漫画を描く日々。休憩と言いながら誘われたやんちゃな男の子と近くの公園で夕方まで遊んで帰った日も。
その頃の私は、じっと座っていることが何よりも苦痛で、私を知る人は皆、私から「将棋」のオーラは感じなかったに違いない。
そうとは知らない母は、お小遣いを持たせ、せっせとお弁当を作り会館へ見送った。時折、将棋大会に母が付いてくると、私が余りにたくさんの人と知り合いになっているので、驚いていたようだ。
中学生になると、同じ世代の仲間は次々にプロの世界へと進出していった。今思うと、幼少時代から一番たくさんの時間を将棋会館で過ごした自信だけはある。大人のお客さんとも随分仲良くなって、お菓子を買いに連れていってもらったり、ナイターの商品券をもらったり。職員さんとも随分親しくなった。
どうしようもない、赤い帽子の子は、関西将棋会館で守られ、育てられ、許され、出来上がったようだ。
先日、この会館も、もう無くなるのかと感慨深く茶色いビルを眺めたら、『将棋会館』と書かれた白い大きな文字が「オレはすべて知っているぞ!」と言わんばかりに見えた。
万感の想いを込めて、深々とお辞儀をして関西将棋会館を後にした。