棋士・女流棋士がふりかえる100年

伊藤果八段「初心者の頃の思い出」

伊藤果

八段

これはある、小さな奇蹟の物語です。
将棋は小学五年生のとき、アマ四段だった父親に無理やり教えられました。
学校内でも近所でも知れ渡ったヤンチャだった為、校長自ら家に来て『このままだと転校してもらいます』と云われた父親が思い付いた案で、将棋なら座っているので落ち着くだろう、という読みでした。
 同級生達に指せるものは誰も無く、相手は父親だけで六枚落ちでもずっと勝てなくて指将棋は全く面白くなかったです。
 ただ、宿題に出された詰将棋解きだけは、兄弟のいない自分にとって邪魔されず独りでできるので、唯一楽しかったです。
 六年生になって将棋教室に通わされ、卒業近くにはようやく初段にはなっていたのですが……。ところが、ここから思いもよらぬ無謀極まる事態が起こります。
 中学一年生の4月、父親から突然『明日、大阪に行く。奨励会の試験を受けろ』と……。なにがどうなっているのか、中学一年の頭の中では整理ができません。初段でしかない子供に奨励会の試験を受けさせる父親は、どこを探してもこの人だけでしょう。
 試験場は当時の関西本部で、大阪阿倍野からバスで20分ほどの場所にありました。
 奨励会の存在も意味も知らないまま父親に連れらたのですが、住んでいる京都から初めて他の場所に行けることだけが嬉しかったです。さてさて……。
 試験は現奨励会員と3局指すものでしたが、結果は必然的に3連敗でした。アマの初段で勝てるわけがありません。
 ところが1週間後、関西本部から父親に電話が……お前、6級で受かったからこれから奨励会員だ、というではありませんか。
 想像もしえなかった、まさかのスタートとなりました。実は当時の関西奨励会員数は20人にも満たず、記録係用員として受かっていたのでした。本人はそんなこととも知らず、将棋界の道を歩んでゆくことに……
 奨励会員として数ヶ月経った頃、父親にどうして試験を受けさせたのかと尋ねたら、プロになれるような期待はしていないし到底無理だろう、ただ愚れないで生きてくれたらいいと思った、と云われました。
 無謀で身勝手で心配性なだけの動機を知ってガクゼンとしましたが、これも親としての愛だったのでしょう。
 摩訶不思議、中学三年生のとき、奨励会入会時アマ初段だった子が、プロ初段になっていたのです。

13歳からの約60年間、いまこうして将棋界にいられるのは自分も含めて、草葉の陰で父親もさぞかし驚いているに違いありません。