棋士・女流棋士がふりかえる100年

有森浩三八段「現会館の思い出やエピソード」

有森浩三

八段

東京の将棋会館に初めて行ったのは昭和52年中学生名人戦の為である。まだ将棋会館が出来て一年の真新しい感じだった。
烏城支部の支部長の家に前日泊めて頂いた。
将棋会館に着くとある所でたまって喋ってる一団がいた。「私たちのグループから優勝者でるだろうね。」
やる気が増大した。
一局ごとに戦法を変えてグループに情報を入れない様に勝ち進んだ。
後で考えるとマークされてもいなかったのだが。
そして決勝戦、当時会長の大山先生(十五世名人)が賞状を渡す為におられた。対局がはじまってある程度時間が経った頃、
「それではそろそろ秒読みにしましょう」
いきなりの秒読みである。秒読みが有るのも、いつ頃するとか対局者は一切知らない。びっくりしながらも勝てた。この年、奨励会に入り、次に東京将棋会館を訪ねるのは棋士になった六年後だ。
関西奨励会に入ったときはまだ北畠の連盟時代で、福島へ移転した時は三段だったのであまり奨励会時代という感じがしない。あまり記録も取らず稽古の前に寄る感じだった。福島になって今までと違うのは最上位の対局席にモニターがついて、控室と道場で見れる事だ。但し対局者がエキサイトすると頭がどんどん出てきて、五段目迄見えなくなる。若手同士がやってるとベテランの先生が頭叩きにいこうかと言うのが定跡だった。棋士になりモニターに映る対局になると席から離れ易くなり楽だった。しかし棋士に見られるのは恥ずかしくないが、道場のお客さんに見られるのが嫌で投了が速くなった。
東京将棋会館のエピソードは、B2順位戦で六連敗して三連勝し最後勝てば降級免れる一番を迎えた。連盟に宿泊していたら、将棋界の一番長い日で対局が終わる迄バタバタしていた。まあこれはこちらも読み筋通りだから気にならない。しかしいつ迄経ってもコードや電線を撤収してる人の大声が収まらないので大声は流石におかしいと注意した。翌日はなんとか勝ち、降級を免れた。
以上現会館の思い出である。