棋士・女流棋士がふりかえる100年

中川大輔八段・勝又清和七段・近藤正和七段座談会

中川大輔

八段


勝又清和

七段


近藤正和

七段

今回は奨励会同期である中川大輔八段、勝又清和七段、近藤正和七段の三人に奨励会時代を振り返っていただきました。



―奨励会時代の印象を教えてください

中川:勝又七段はいつも最前列に座って率先して記録をとっていたイメージ。近藤七段はすごく小さい子というイメージが強いです。
近藤:僕は田舎から通っていたため、記録は夏休みの時だけとっていましたね。
勝又:中川八段のことは中学生名人戦などで知っていましたが、近藤七段は奨励会試験で突然出てきた小学生。それなのに奨励会試験で負けたことはすごく覚えています。
近藤:歳が少し離れていることもあり、奨励会時代あまり人と一緒にいませんでした、研究会にはひとつだけ入っていましたけどね。
勝又:僕も全く違う研究会にいたので、入会後彼ら二人と関わり合いはあまりありませんでしたね。
中川:たまに10秒将棋とかで指したことはありました。その時の棋譜や研究会ノートはすべて手元に残してあります。
近藤:昇級できなければ辞めようと思っていたころ、中川八段の家に遊びに行ってよく将棋を教えてもらっていました。
勝又:僕も中川八段の家に行ったことはありますが、将棋の本しかなくて、しかも負けたら腕立て伏せをするという厳しさを見て、勝てない、彼は違うなと感じましたね。
中川:田舎で根性論みたいな世界で過ごしてきたから、そのような考えのまま生きてましたからね。自分は高校にも通ってなかったため、将棋しかやることがなかったのもあります。



―お互いに関わる思い出は何かありますか

勝又:小堀清一九段と羽生善治四段(当時)のC級2組順位戦の記録係ですね。1986年の対局ですが、69歳と16歳の最大年齢差の対局だったのではないでしょうか。終局が0:33だったのですが、感想戦を朝まで行って清掃の人に怒られていたことがすごく記憶に残っています。雲鶴での対局だったのですが、翌日中川八段が同じ場所で記録をとるため、盤を片づけないで帰っていいよと言ってくれたのです。後にも先にも盤を片づけずに帰ったのはその時だけです。僕はそのあと、そのまま学校へ登校しました。ちなみにその翌日中川八段がとったものC級2組順位戦だったのですが、調べたら終局が19:50と早かったんですよね(笑)
中川:勝又七段に言ったことの覚えはないですが、早く終わってさっさと帰ったんでしょうね(笑)
中川:思い出というか、謝りたかったことなんですが、地下にあった食堂でお味噌汁をこぼしちゃって勝又七段にひっかけちゃったのをすごい覚えています。
勝又:全く覚えていないんですが、そんなことあったんですね。
中川:あの時は本当に申し訳なかった。



―奨励会時代の思い出

中川:当時はまだ三段リーグが始まる前で、いいとこ取り13勝4敗で昇段でした。ただ、昇段の可能性が出てくると、当時から強かった森内九段・佐藤康九段・先崎九段などとあたるように手合をつけられていました。もちろん逆に彼らが昇段の可能性が出てくると僕らも駆り出されていましたね。
勝又:彼らの中だと、佐藤康九段。「僕は関西から来た佐藤康光です」って言った彼にボコボコに負けたのをよく覚えています。郷田九段や森内九段といった強い人がすでにいる中で、どうしてくるんだって思ったのを覚えていますね。
近藤:僕が奨励会の時、すでに羽生九段が七冠になっていた時代。何をしているんだろうって感じたことはあります。
中川:今では花の57年組と呼ばれる一年前の入会の人たちですが、その優秀さを当たり前だと思って奨励会時代を過ごしていました。特別な存在だったんだと感じたのは相当後になってから、当時は勉強すれば追いつけると思っていたこともありますね(笑)
勝又:当時彼ら以外にも強い人が何人もいました。ただ、57年組を見て辞めていった人もいっぱいいる。ものすごい才能があるからと言って四段になれるとは限らないと痛感しました。
中川:54年入会の人たちは、一人も四段になれていません。下から追い上げられる辛さに耐えられなかったんだと思います。
勝又:確かに、57年入会組よりも、後ろからくる丸山九段・屋敷九段のほうがきつかったですね。
近藤:僕あの二人に一度も勝てなかったです、なんなら棋士になってからも勝ててないんじゃないかな(笑)



―昇段を決めたとき

中川:僕の時は三段リーグ最初の時代でした。二か月前に唐突に三段リーグが始まるという通達がきたので、驚いたのを覚えています。また、当時は年齢制限が30歳の人と26歳の人とごちゃまぜだったので、かなり年齢差がある人もいる16人リーグでしたね。
勝又:26才になる2週間前にあがりました。書類に判子を押したときに泣いていたのは覚えているのですが、そのあとの記憶は全くありません。ただ帰宅して一晩中泣いていたらしいです。その話を母が師匠にしたと、本当に最近、師匠から聞きました。
近藤:僕は勝又七段が上がった時ギリギリあがれなかったんです。19才のときに杉本昌八段に負け、勝又七段に負けた時は次点2回目でした。ただその当時は次点の制度がなかったので・・・。ショックで学芸大学駅で倒れこんで寝ていました。まあ、その学芸大学駅に、その二年後に四段昇段後、住むことになるので不思議な縁ですね(笑) 結局三段に六年半いたのですが、昇段の時はラス前で周りが負ければ上がれると言われ、ほかの人たちの負けを祈っていました(笑)



―奨励会時代の苦しさ

近藤:将棋を指すことよりもお金がなくて苦労しましたね。お湯が出ない・洗濯機なしでラジオとこたつだけの家。バイトで新宿や横浜駅などの将棋道場の手合い係をして、お金があるときに連盟までの回数券を買っておきました。困ったときに行けば誰かが助けてくれる、おごってくれるような昭和の良さがありましたね。
中川:仕送りはしてもらっていましたが、お金のことは常に頭の片隅にありましたね。
近藤:しかも僕、すぐ四段になれると思って家をあまり考えずに借りていたので、余計に苦労しました(笑)けど、自分を見送る母の姿が忘れられないので、恩返しのためにも頑張れたような気がします。
中川:好きなことを一生やれるのが一番いい、将棋だけで金持ちにはなれないが、お金があるころが幸せだとも思っていないですね。好きな世界で生きていく、という苦労だからいくらでも頑張れました。
勝又:僕は今考えると、最後の二年以外は全然本気じゃなかったんだと思います。安定した仕事を得るまであと2年と思って、最後は自ら環境を追い込み、一人暮らしをしたことで棋士になれたと思います。



―奨励会時代を振り返って

中川:僕は中3の時に奨励会に合格したのですが、2年生で受かっていたら内弟子になる予定でした。僕の場合は内弟子になっていたら全く違った人間になっていたと思うので、中2で落ちて中3で受かったことが逆に良かったと思います。
近藤:僕はまず、師匠を原田九段に引き受けてもらったことがありがたかったです。そのあと上京してきた後は内弟子として迎え入れてくれ、その生活で強くなれました。田舎にいたころはパソコンなんてなかったですし、将棋の本といってもアマ初段程度のものばかり。強い棋士の棋譜を並べるのが一番の勉強だった環境でしたから。
中川:中3で上京してきて将棋しかしていませんでした。そんな多感な時期にストイックに生きてきた。人生でいろんなことを学ぶ時期にそのような生活をしていましたが、四段になれたからよかったです。ただ、もう一度同じ人生を歩みたいかと聞かれるとNOですね。懐かしさはありますが、戻りたいとは思いません。
勝又:さっきも言ったように、僕は最初全く本気じゃなかったですね。だからこそ、1級まであがったあと、しばらく昇段できませんでした。ここは今の奨励会員も変わらないと思いますが、ガッツのある根性のある子たちが三段、四段になっていくんですよね。
近藤:僕は奨励会幹事をしていたことがあるのですが、自分も苦労した経験があるので、奨励会員には連盟に迷惑をかけないようにと伝えることしかできなかったです。
勝又:近藤七段が奨励会幹事になった時、そんな年齢になったんだなあと思った覚えがあります。ただ、中川八段も奨励会幹事・理事と経験し、自分も非常勤講師として肩書を持ちました。同期の自分たちが三者三様で肩書を持つようになる、歳も取りましたが、面白いですね。



実は一緒に飲みに行くのも初めてという3人、とても表に出せないような裏話も含めて、思い出話に花を咲かせていました。