棋士・女流棋士がふりかえる100年

有森浩三八段「師匠との思い出」

有森浩三

八段

師匠の有吉先生と始めて会ったのは昭和51年。
生で見たのはその前の年の昭和50年の岡山天満屋将棋祭りだったと思います。
昭和51年の段階ではまだまだ弱く、奨励会入会の話もありませんでした。
おそらく地元の有力者に頼まれたから仕方なくだと思います。
昭和52年に中学生名人戦で優勝してからは、地元の有力者が盛り上がり、当然受けさせるつもりだったようです。
師匠が大山先生に入門する時には大山後援会の口利きがあったとの話です。
私も師匠の同級生やら、いろんな方々の口利きがあったみたいです。
師匠が通った中学は私が通った中学と同じ岡山市内で学区も近くです。
奨励会入会はいまの福島の連盟ではなく、北畠の連盟でした。1階の塾生部屋で10秒将棋を指すのが日課でした。ある日あまりに声が響くので2階で対局中の有吉先生が、「あれは誰かねえ」と尋ね、「先生のお弟子さんです」の声に、「ああそう」で終わったそうです。
夕方、連盟にいると某先生が、塾生のA君と私を近くのお好み焼き屋に誘う事がありました。
某先生は酒を飲み、我々はお好み焼きを食べて付き合います。酔っ払いの常で同じ事を何回も言います。大概威張ってますが、「有吉は良い男だ」が混ざります。某先生怒りっぽかったですが、有吉門下の御蔭か怒られた記憶はありません。師匠とは一緒に稽古に行ったり、同じところに別日に行ったりしました。稽古先のアマの方から、有吉先生はこの局面で、「AとBどちらでも良くなるがAを指しなさい」と言われましたが何故でしょうかと聞かれます。何とか有吉先生の話しを註釈しなければいけません。それには有吉先生の指導をちゃんと見るのが必要です。始めは大変でした。自分も指導対局やりながらですから。少したち、考え方がわかれば楽になりました。稽古先での食事会にご一緒するのも増えて来ました。すると招待先から嫌いな物を聞かれます。
私は烏賊蛸茸が嫌いなのです。すると有吉先生が必ず松茸はどうなのと聞かれます。大概私は、松茸はそんなにいつも食べるものではないとか、匂いを楽しむものだとか答えます。
もう一つ木村名人や大山先生、その他棋士数人にファンと、岡山の松茸山で松茸食べた話が必ず出てきました。後年私も歳がいった時毎回食事のたび、松茸はどうなのとのワンセットの会話に流石に呆れて、「何十回も話してますが、覚えて頂いてないですね」と言いました。それに答えは、「どうでも良い事は覚えない様にしてる」私はこれを聞いて若い時に聞いとくべきだったと感じましたね。有吉先生の教えはあんまり?いやほとんど守れていませんが、時間厳守は守っています。
思い出はその他にもいっぱい有りますが、これくらいにしておきます。
大山先生と天国で麻雀を打って居て下さい。
麻雀デビューが大山先生だった私がネギ背負ってそのうち行きますので。